憎みはかしこねの尊が入込んで下さって自由用に口が利くもの故、憎みの埃を生ずる。憎みとは言葉の使い間違い、そこないが憎み、喜ばぬ心口に出して云うのが憎み也。言葉で人の心を痛め、人を倒し人の害をなす風を吹かす悪口仲言笑いそしり。陰口は人を憎しみ悪気の息、口に出し手を出すが憎みの埃。
例え如何なる場合でも或いは迷惑、損害、失敗、人に見下げられ侮辱せられても或いは腹が立つ場合でも一旦我が心を沈静にして十分我れを顧み、我れの心と行い我が身の因縁天の理を悟る時は必ずその欠点原因運命あり。我れの欠点、我が子の欠点行き届かぬ事失敗を恨み、憎みて人を憎まぬは誠なり、我が身を恨むも同じ。之れに依りて我が心が一段進歩向上し徳が出来る。失敗は成功の基というが如く艱難と失敗に多く接した人程出世をする。人に揉まれ人に打たれ、人より我れの欠点を云われ笑われそしられ、又注意忠告せられて我れが一層進んで行くなり。
又罪を惜しんで人を憎まぬは理に叶う、埃罪悪は憎まねばならん治まらん。故に現今聖代の御政事は罪人でも其の罪其の心を憎んで戒め改心さす為で、身体は憎まぬ理なり。沢山の罪人がたとえ何十年幾回も罪を犯し重刑の用意ならざる厄介者でも殺さずに養い人間は粗末にせず大事にしてある。我が身を憎むべき事を、人を憎む我れの埃や行き届かぬ事は棚に上げて置いて人の穴を指さし、人が一つ云えば五つも云い返す、人に満足与えにゃならん事を満足与えぬ心。
人に足納させねばならぬ場合に却って人に不足を積ます、行き届かぬ心、我れが同情心慈悲心の無き少量なる所から即ち誠の無き心から悪気の言葉冷やかな暖か味なき薄情の口を以って、悪口口騒がしく人の感情を害し心を乱し腹立たす口論喧嘩。全て人間は我が身が可愛いが為に身欲身引きから人を憎む心が起りやすく、同じく身びいき身勝手の分け隔ての我が身可愛の前世よりの因縁に依って、即ち性質からして人に好き嫌い物を嫌う埃が生じる。前世に慈悲情けと云う親心は、例えば多くの人の親方となり、大きい心の人は分け隔て少なく、人を可愛がる育てる心有ると同じく、心の小さい身引きの因縁から人を嫌い人を敵にするようになり因縁の者が寄り又食物に迄好き嫌いの心が現れる。
例えば昔から今に至る迄奸臣が忠臣を憎んで汚名を後世迄残し、或いは我が身の因縁と云う事をわきまえずして継母が継子を憎むとか、姑が嫁を憎み、嫁が姑を憎む、或いは猜疑嫉妬により無暗に人を憎むとか、全て人を憎む嫌うと云う身欲の狭い心で誠の無い心で有る故、たとえ人が善心を以ってする事云う事でも悪い方に受け取り、或いは恩人を仇にしたり或いは其の人の少しの過失とか欠点を見れば大きく吹きまわす功労が有っても賞せず、人の喜びを妨害し誤りばかりを挙げようとするが如く、此の心ぐらい人心を害する平和を破るものはない、人間の価値を落とす。
又人に冷遇せられ恥辱を受けたる場合でも、我れを反省して我れに受くべき理ありて我が身に係る事は皆我れの因縁である。又欠点有りて、天に口なし人を以って戒むるの諺の如く、人は神なり神が助ける為に進まず為に云わせ下さるのやと、足納して我れの懺悔改良一層の勉強する如く。
此の心有りて我れが段々完全無欠に発達して行くのであるなれど、心小さく自重心のない所から心たよりなく人を羨ましく思うとか、到底我れの力は及ばぬとか出来ないとか、人の云う事を気のかけ不快の感情を催し我れが進む事を知らず喜ぶ事を知らざる心から陰気になって、只人が悪いと恨む心から寂しい、卑しい心を使うようになる。我が身を憎むと云う理は、我が身を恨むとか同じ意味で、いたずらに人を憎まぬという理堪忍の徳足納智恵なり。腹立ちても其のまま言葉に出さず静かに内省し、前後を思わんばかり物の治まる様善き方/\と風を吹かすから、人に満足を与える、度量の広い心誠なり。誠があるから人に不足積まさぬのである。益々徳が付く故、人が感化する。
口に出して悪しき事云うから、かしこね様の御恩御働きを無にする。口に出さぬ内は腹立ちや恨みであるなれど、心に恨み腹立ちあれば言葉は心が現れるものなれば、自然と言葉に現れるから憎みの埃となる。
かしこね様は六っく、誠の神様故人間を陽気に勇ますために人間に入込み、世界に鳴り物、其の他色々と面白き言葉の自由御苦労下さって居る。しかるにかしこね様を使うて悪気悪風を吹かし、人心をいずます、悩ます、人を倒す、神様が満足出来る筈がない。
例えば憎みても/\も心思い切れず、人の家に火を放つとか、人を殺すとかして、是れは其の憎みの絶頂に達したるものにして、之れは我が云う事出来ん、我が心に思いて一代通る、云うに云われぬという因縁が有る如く、憎みの理が十分迫ったら物が云えんようになる、物が云えなければ憎みようがない。
例えば其の者に対しては上手口を云うて、陰では人の悪口を云う心から互いに腹立ち憎み合いとなる如く、褒められて我れ賢しと思うなよ、誠で褒める人は少なしと云う如く、巧み有り、欲から吹きまわす道を治めたる者は其の人に対しては其の者の欠点を注意してやる、その者の悪しき事知れば云うて聞かす、短所を補うてやる、其の者の為になる心、助ける為には或いは強い言葉の入る場合も有る如く、とにかく其の者の身の為になる真実から出る言葉、陰では其の者の長所を指して賞するから人を向上さす為になる如し、是れは誠有る心なり。
人間には皆長所短所が有る。例えば、容貌の悪しき者には何か心に賢い所があるとか、何か善き所無くては人体を借りて人間と現れる事出来ぬ故、必ず一人一名に長所は有る。
その善き所を見て行く。一家族夫婦の間柄でも同じ、其の長所を見て下を眺めて我れの分限、我れの因縁、天命を知って足納する心が六っく、睦まじく円満に治まる心。人間は多く増長するもので、互いに不足から面白ない、憎みが出るようになる。欲に切りない泥水と仰せられた道を知った者から六まじくして行けば必ず家族皆臺に乗るで、睦まじくなる。
一人一名の心に誠あれば内々睦まじいという世界成る程と云うと仰せ下さる通り、此の世は六臺始まり六っくという世界、六っくは誠なり、元々六柱の神が御揃い下されて人間始めた理により六尺四方を一坪、三百坪を一反、六尺が一間、六十間一町、六六三十六町一里、六十分が一時間、一日二六二刻、六六三百六十日一年、皆六が臺、南無阿弥陀仏と云うも同じく、此の六ツが南無と云うて一つあみと云うて、一つだぶと云うて、一つ御夫婦、三ツみちと云う、水火風と云う三ツの理が揃わねば何事も出来ん。六っく睦まじくなくては此の世は何事も思う様に成らぬ。睦まじき心がはずれては一切成功せぬのが宇宙の原理原則也、睦まじく、誠なくては此の世は通れぬ。
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