伊勢国五十鈴川の水上に鎮座まします日本総社内宮外宮様はいざなぎ、いざなみ様、月日二神御入込み下されたる也。天照皇大神宮とは天は水・月様、照は火・日様、御親の神なり。八幡大神、春日大神御添い下さるはつきよみの尊、くにさつちの尊にして月日様の一の道具神様なり。
讃岐国琴平山に鎮座まします金毘羅宮の御神体は大己貴命にして即ち大国主命なり。くにさつちの尊の変化にして金の神きんぴら様なり。舟神と崇む舟は続ぎの理にて女一の道具と同じ理なり。帆柱、櫂、櫓、皆男一の道具と同じ理にして舟を自由自在にするなり。此の金毘羅宮に癩病の者一心不乱に一願を籠むれば御利益著しく在りたるは続ぎの御守護下さる神の変化故なり。
山城国男山に鎮座まします八幡大神の御神体は、神功皇后の御腹より降誕まします誉田別皇子即ち応神天皇なり、此の八幡宮は武将神と崇む破軍星の御心即ち、つきよみの尊の変化ましますものなり、悪気逆徒を制し下さる神様なり。
山城国伏見に鎮座まします稲荷神社と云うは往古即ち神代之時天の親神始めて人間に米を与えられたる時、種配りを命ぜられたる神なり。心正直にしてよく勤労せられし故、米の神様と成り給う。人間其の往古其の時分神代之頃の如く正直真心狂わねは稲荷様と同様の位あれ共、だん/\人間の心悪気盛んなる故に皆下りたるなり。
例えば今の米屋が稲荷様と同じ理也、米買うもの正直にやれば御得意様と米屋主は敬えど代金は怠惰し又払わざる時は皆ののしりを請けるなり、命の親たる米なれば其の心得大切にすべきものなり、世間に往々狐為に騙らかされ路に迷い困難する者あり、狐は卑しき獣類心にして金銭出入り交際を偽り或いは命の親たる米屋を騙したる種の生ずる故に一の獣類たる狐の為に困難するは恥ずかしき次第なり、よく/\注意専一なり。
家々かまどの上に祭る三宝大荒神は人間の命、世界水火風三つの宝、身体にては水気温熱呼吸の三なり。此の三つは平常一秒間も欠ぐべからざる物なれど洪水、大火事、暴風となる時は恐るべき大の荒神なり、故に三宝大荒神と崇むなり。
かまどは六台の事なり、六台とは木、火、土、金、水、風の六つにて命を保つ故に九の土と云うなり、くど九つ胴、、六台に三つ載る理。
出雲大社は大国主命、第三くにさつちの尊の御変化なり、縁結びの神又弁才天と祭るも同じ、金毘羅宮も同じ、金の神と祭る金銭も続ぎ舟も続ぎ全て乗り物は皆女の理なり。弁財天美女の姿を描きたるはくにさつちの尊の御徳を現わす。
恨み残念三代持越せば癩病と云うは此の神様の立腹、此の神様は人間万物続ぎ一切、又表の神様ゆえ見える所美しき、奇麗なるは何物に限らず表の続ぎは此の神様の御神徳の現われ故、例えは、人間も如何なる美人と云うても癩病、皮膚病の如く皮続ぎ腐れ破れ或いは体内の続ぎ切れて病体と成れば醜き姿となるが如く、此の神様の心に叶い其の道に徳を積んだ心の理が美人と現われるなり。人を続ぐは人を立てる天の理を立てるも同じ理、又音声の美はかしこねの尊の御神徳。
又つきよみの尊は昔より弓矢八幡大明神と祈りたる軍の神様にて勢いの神と云う。破軍星軍を破ると書くと如く誠を立て貫きて悪を破る勢いの強き立ちきつたる御心にて、此の神様の徳に依って世界万物は倒れず立って居る。万の物事成り立つ納めの神、誠を以って世界を立てる事に強い善に突っ張り抜く挫けぬという神様なり。
勢いが弱くては何事も立たぬものなり、故に人間も天の理を守りて、誠を立て人を立て、理を立てて行けばつきよみの尊の御心故、破軍星と云う。向かうて来るものが皆ことごとく負けてしまう、突き破らるゝなり、立てる事に強き神様なり。
人間の埃と云うは我が身の思惑を立てんとして誠を失い、天の理を立てぬ破る故、我が身が立たぬようになるなり。
御教祖は天保九年秋戌の十月より神様の御命を承り給い立てゝ下された、用い下されたも同一(戌亥が建て始まり)。其の神様の思惑を立てるために我が身我が家我が子を犠牲にしてあらゆる迫害の中幾度の監獄、如何なる御艱難も御厭いなく其の突き立った御心を五十年間くるわず御通り下され神の思召しを立ち貫き下されて此の道が立始まり、立教となった。
御教祖は有形の物は人に施されたけど心は即ち神を立てられたものである、教祖には恩の送り様がないとの神様の御言葉も有り、故に御道は人間の親たる神の思惑を立てる道なれば人間の我が身勝手の思惑を立てよと思うは間違う故、神に水くさい、成り立ちぬ人間心で成り立つ道でない。人間心はすっきりいらんとの御言葉なり。
又此の神様は道教えの神と云う、地蔵神とも云うて道分け例えば此方は山、此方は海という、こう行けば間違う、こう行けば道という教えが此神様が抜けてある人は出来ぬ。
此の神様の御心は八方八神の括り故、此の理が立てば皆理が治まる、一日立つ一月立つ一年立つと天理を読み給う理。万納めの神様にてつきよみの尊と云う、人間も万事成り立ちせざれば十分胸の内に治めて有れば如何なる人にも十分満足与える事が出来る。
又五行の道では礼というは此の神様より出て居る。人を大切にする、人は互いに立て合い助け合う礼儀という、此の理が無くては畜生に等し、人間も古き昔は野蛮時代で獣類の如く力づくで倒し合い強い者が弱い者を倒し、喧嘩ばかり家宅の取り合いと云う風な悪気で有ったもので。、神がだん/\戒め成人に応じて教えを布き善道に導きて育て下さって進んで来た。
例えば獣類は親も子もない目上目下の順序も恩を知る事も或いは色情でも誰彼の区別なく義理も情けも礼儀作法もない。人の作物我がの作物の区別もない只食う事ばかりの心、大小便及び汚い事も掃除する事も何も知らぬ如く人間も追々成人して神に近つくに従い人を立てる事、行儀作法などが分かって来る。あたかも子供が成人するに従いて何かに分かって来るが如く、人間も神の世に進むに従って心が進んで行くから我が欲の汚い心が清浄な立て合い助け合いの神の心に進んで居る。
故に下等社会程此の理が心に無いのである、だん/\心が汚れると獣類に近くなる、それで段々此の理の無いもの程下等に住まい暮らしが立たぬ難儀をする神様もだん/\と子供の成人を待ち兼ねる、神の思惑之ればかりなり。又成人次第見えて来るぞやと仰しゃって有る通り子供時代には大人の教育しても分からん如し。故に御道は皆深い尊い事が云うて有るなれど我々の心が進んで行かねば聞いても分からん。
神世は是れから先に出来るのであるなり。神は何から何迄拵えが出来て居ると御言葉にある通り、神の守護により世界が神の世に進んで居る。例えば昔は日本の内輪一国一郡でも取り合いをして居た如く、又川向うの火事と云うて眺めて居た如く、今は他県の火事でも全国が知り全国から互い助け合うようになった如し。
又聖徳太子様は此の神様の御変化なり建築大工業の守り神と祭り来るは立ち木建物立ち柱と云う大工業は此の神様の理、建てる役、正しい定規を以って立てるゆがんだ傾いた物は立たん倒れる。宇宙間一切の建築物は此の神様の理に依りて建って居る倒れぬ也。かの昔より城頭棟頭にしゃちを飾りたるは此の神様の理を以って立って倒れぬという理なり。甘露台勤めに鼻高面としゃちほこを此の神様の所に飾るは此の神の御神徳をかたどりたるもので、鼻高と云う理が此の神様に有る。
鼻柱顔の辛鼻で顔が立つ鼻も立つという理は此の神様の理なり。筋道を立てるという、誠を立てる、道を立て人を立て、親を立て、上を上と立て、女なれば夫に貞女操立てる如し。
成すべき事をきちん/\と成す、人に恩を受けば恩を返す如き、皆筋道を立てる理、鼻は人道ともいう、人の道を守りて崩さず立てる誠一筋というが如く、鼻は世界の花と云うも同じ理、花も種々ある如し、人間の花も種々、花は実を結ぶもの、人間の鼻は考える道具。其の考えたる事を行う故一つ/\実が入る理成ってくる。
例えばあの人は鼻を高うして居るというが如く人間は成すべき事を成して踏むべき道をふみ、何所へ出ても恥ずかしからぬ道を通り立派に行うて居れば、鼻高うしてぴんとして居れると同じ、低いは其の反対で立てて居らぬ人にすべき事をせぬ。
例えばこうすればよいに、あゝすればよいけれどと思う事をせずに置くが如く、成さねば実が乗らぬ、其の成さんのは埃から成さん其の因縁で物が与わらぬからようせぬ、故に人の中に出ても鼻低うして居らにゃならんが如し、全て鼻の高低等は前世の理なり。
鼻筋の潰れたる者は前世に以上の理に依り我行うべき理を立てずして大いに人の恩をかぶりて来たる理、鼻筋の立つは此の神様男一の道具も同じ理。
例えば一道具を使って伝来の財産も潰し身を持ち崩し家が立たぬから鼻落ちるが如し、又一の道具が立たねば一家世界も立たぬ。鼻は舵取り鼻の落ちた者に考えのよいものはない、又鼻高天狗はたいしょくてん様の理で切れ物が上手なり、思い切るから立つ全て天狗など云う事は理想を給いたもので昔話なれど、一に勢いと云うて天狗は神故に、人間の心の勢いに乗って働くものなり。恐れて逃げるような弱い心の時には天狗に逃げて居る、是れは理を云うたものなり。
天理の事を読むからつきよみの尊、天理の風を守るから大日如来、天理の道を守るから不動明王
大日如来はかしこねの尊の御変化此の神様一番大役故、一世は大日如来と変化し給う。世界中のものが物を云うて居る、日々に大きいと云う意味、此の神様休みなし、人体でも肺は生まれてから死ぬるまで夜昼一つも息は休まぬ如く。
かしこねの尊は風の神、誠の神様故人を憎まぬ治める神なり。人に満足与えると云う御心にて堪忍の風というて不足腹立ちを風に出さず寛大にして、どんな者にも分かる様説いて聞かす。如何なる事でも善き方/\と物事の治まる様/\人に足納与えるよう、誠から優しく言葉を吹かすのがかしこねの尊の智恵なり。それ故に如何なる事も皆善悪が分かりて世が治まるなり。聞かすという、助けると云うは心を治めるも同じ。
此の世は言葉の理で治まる世界なり。陰陽和合によりて陽気を生ず水気と温みが合うから風が出る如く、天の理に合えば誠の風知恵が出る。御教祖が月日の御心に合致せられて神様の御言葉が出たるに依り世界助けの御道が始まる。
教祖の神聖なる言行風儀は天理の風なり。又神がかりの言葉の一条が天の自由用と云うなり。人間も天の理に合わぬ天理に切れて居る心を以って働き居ては陽気に勇む事が出来ず、智恵も出ぬ一身が治まらん。
例えば人と人との心が合わず仲が悪ければ物云わぬ心、合わして睦まじければ家内の中でも陽気、又人と交際して智が付く如く例えば子供が学校に行きて一年の間に非常に智恵が付いたという。
是れは先生が教える事を一心に覚えて守って居るからである。全て心の合うた先生につかねば智恵が付かんが如し、教える師匠は我に取ってはくにとこたちの尊、君臣の間は主君がくにとこたちの尊親子にては親がくにとこたちの尊、夫婦の間は夫がくにとこたちの尊、皆水と火陰と陽が合うて成り立つ世界、故に親に切れ主人に切れ師に切れ兄弟親戚に切れ人に切れて居ては天の理に切れて居る。天の理に合わぬのであるから何程苦心しても頭が進んで行かん。
又此の神様は義の神様、義理と云うも同じ、此の神様から義と云う事は出て居る。全て皆月日両神から出るなれど月日二神からかしこねの尊に美と云う事は御任せになって居る。人と交際、言葉一条、白紙に文字を書いたらもう直すと云う事が出来んと同じく、云うた事を違えん、云うた事の違わぬという定役をたがえぬ如く、人間は義が大切、義理の道万事義と云う事は此の神様、未申、羊に我と書く。
羊程義の堅いものはない、羊は虎に向う時は朋友を助けるために我も/\と皆先に/\進んで行く、食われるという我が身を虎にあてごうて朋友を助けようとする性を持つ。昔の武士道でも義で持って居た、例えば武士に二言なしと云いて義を守り、又向うが刀を捨てれば自分も刀を捨てて掛る如し、義を立て、不義なる事は死しても成さんという義を重んじた事、是れ義の徳也。
羊でもかしこねの尊の理が付いて居るから其の性が有る、神様が羊にも虎にも狗にも十二支に御変化下さって開闢の間潜って通って下さった故に其の理が動物にある。
人間には勿論義が無くてはならぬ、義は誠、我が身の小さい欲を捨てて例え我が身を犠牲にしても人を助けると云う、又国家の万人の為に尽くすという真実誠なれば其の心は神と同一、必ず神に分通する故天晴れの働きが出来る神は人間の心に乗って働き給う故誠に依って神の働きが現れる。
神言に、我が身捨ててもと云う心なれば神が働く。と仰せある通り、人間は我が身を案じ身欲から心が小さく穢く暗くなって徳を落とす。真の誠なれば、天が守り給う故、天運尽きず長久なり。誠が無くして此の世の役にも立たず、又人に害をなし埃を積み、天の龍頭が切れて神退けば人間程脆いものはない。
何所に居ても、どおして居てもいわゆる畳の上からでも死なねばならん。天の龍頭さえ切れねばどんな危ない所でも大丈夫通れる。たとえあられの如く飛び来る弾丸の中を潜っても又昔で云えば矢の中でも身に当る理がなくては当らぬ。
例えば昔の太閤秀吉でも徳川家康でも天が世の中に必要有って守って御座った故殺されず天下を統一したと同じ。
昔より臆病者が世に勲功を残し、天下に天晴れの名を残した者はない。もし秀吉や家康が臆病者で戦場を恐れて出なかったとすれば斯くの事業は出来ないが如く神は心に乗って働き有るものなり。
又国家の為世の為に犠牲となって功労を残して死したる魂は直ちに生まれ出でて国家の上に立つ天徳を以って世に現れる故万人の尊敬を受ける。上に立たるる人は皆前世に世の為に尽くされた因縁ある魂にて、是れが因縁心の道なり。
御教祖が照之丞を助ける為に我が子の命を神に捧げて助け給う教祖の真実を神が見定めて、天保九年より教祖を神の社として天下り給う。教祖は二十五年の命を縮めて魂一つとなって存命通りと働くと仰せられ、又一列の子供が成人したならば教祖は再び生まれ出ると仰せられたのであるが勿論一代を犠牲にして世界の為に働かれた御方々が再び世に出られぬ様な事では此の世に神は無きも同然暗闇も同じ。
此の世は神の世界で一寸先の分からぬ人間の自由になる世界ではない。人の神魂は神の分心故、代々此の世に出て居るものなり。身体はいわゆる水の泡同然のものなるが、魂は神と共に不滅なり。人間の生死は全く神の支配にて決して人力の左右すべきものに非ずして神の自由に在り。又我が身の欲を去って我が身を犠牲にして人の為国の為に尽くすという位な真実が有れば此の神様入込み給うて実が利くなり、我が身の欲で田地や山林や財産を持ち又金を貯めようとするような間は、此の神様の通力が利かぬ故、言葉一で世の為をするとか、息で働く天徳は出来ん。身薄になくては出来ん。
身薄にならねば此の神の実が利かん。世の中に芸人とか歌或いは浪花節とか鳴り物を以って人を喜ばす事に達者なものも理は同じ、又天性美声にして人に珍重敬慕を受ける人は此の神様の理に叶うたきれいな心にて前世に人の為になる言葉を使いてある理で或いは人を喜ばせ人を助け其の道に徳を積んだ因縁有るなり。
すべて陽気に面白く話しをして人を喜ばすとか勇むとか笑わす方面は此の神様の理に叶う方であるが、之れの反対で我の欲心から色々と人を害する、人の心を煩わしい人の腹立ち恨むような悪口、そしり話や悪風を吹かす方は皆我の徳を落として行くなり。
声のよいと云う理は中々意味が深い也。又鳴り物は人間言葉の理と同じく鳴り物の一番は鞨鼓が第一位のものなり。是れは心の格好という理で、心の格好は悪しき所を立替せねば格好よくならぬ。
又三味線は鳴り物の中でも広く用いられ僅か三筋にて最も美妙なる音調を発し人心に陽気を与えるものなるが、三味とは言葉の理にて三つの味わいと云う理で強いと弱いと中程全て言葉は心の現われにて人を助ける事も人を苦しめる事も大にしては世を治める事も世を乱す事も皆言葉が働いて居るもので大切のものなるが、例えば御道一条或いは一家の子弟を教育するにも何時も柔らかな言葉だけでも育たぬ、助からぬ者あり、却って其の者一生をあやまる事あり、強気厳しき教育にて助かり、生涯の出世さす者とあり、皆云うに云えぬこきゅうがある如く、兎に角埃無ききれいな即ち誠親心より施す言葉はたとえきびしき内にも温かき味わいのあるのみならず、人心を感化し教訓するの力あるもの故、人の心育つなり。
不動明王はおおとのべの尊の御変化不動は動せぬという理。
盤石の如くと云うて人を助ける為には、誠の為には心を変えぬという理なり。かの仏像に炎の中に真っ黒の像が剣を以って泰然たる姿を描きたるはたとえ如何なる中でも心を動せず苦労を厭わぬという、此の神様の御心の姿を教え給う御道なれば如何なる悪因縁埃の中も切りぬきて埃にまみれぬ心を倒さぬ、人を助けるためには真心を変えん、誠一筋押し通すと云う真実、定まったのが不動の精神。
又此の神様とつきよみの尊二神で秋が出来て居る故御心も此の二神同じ所が有る、酉戌亥秋の神、力の神、働きの神、御守護も御添い下さる。
此の神様は出世神とも云うて人間は自慢や高慢では出世出来るものではない、低い心で万事行き届く心を開き自分が守り行うて実力を拵え価値さえあれば自然に神が引き出しなさる、万物引き出しの神様、引き出し下さるは何の為かといえば万引き与えて満足与え下さる神故に、人間も人に引き与える、満足与えるという、全て我が働き骨折りして人に十分与えると云う心になるから我が身に力が備わる、又恩を返すと云う事に力を入れて人に引き与えすれば自身に力が出来る(殊に御道は此の理が大切なり)。
身の内では筋の御守護、筋は全身に行き渡って働いて居る、たとえ一小部分でもいささか一分でも足らんとか短かったら筋を釣って伸縮の自由叶わぬ如くで、隅から/\迄行き届く一つの抜け目なく八方に心を配りよく行き届く神様人間も其の心の理で十分物事を心に納める、それ故に人に満足が与えられるなり。
筋は骨の行き渡る所は筋が行き渡って居るが如くで此の神様の理は人のするだけの事はする人に引けん人のなす事、人の知る事は我が成せん、知れんという事はない。人に負けん後れぬ劣らぬ人より優るという心、例えば十あるものを六七分知りて私は是れでよい分かったと思うて居る如きものゆえ高慢、私は行き届かんまだ/\十分学びて上達せにゃならんと自分の短所欠点と人の長所が見えて人を見下げる心切る心なく、心使いの低い柔らかにして熱心の強い心から日々に得が付いて上達する。又人がこう云うから人がどうしたからとて心がたよ/\して倒れるような真実の定まらぬ薄弱な心では何事も出来ん。
たとえ人がどう云おうとも我が是れをやりぬかねばおかんという変らんくるわん、真実の据わった辛が立つから延び上がる事が出来る。此の心の無いような者は役に立たん、と云うのは世の中は多くは埃に染まりて徳を落とすので有るから自分の前世の悪性質を切り天の理を胸に納め心澄まして誠一筋押し切って世の中の為人を助ける技量実力の天徳を得るに意思の強固なる迷わん動せん強気誠を立ち抜く真実親心が不動明王なり。
御教祖が雛形、教祖が如何なる中も世界の子供助けるために盤石の如き心にて御苦労下された故、此の道が出来立った。 もし御教祖が御苦労艱難に堪えられず中途御心倒し心を変えて居られたら、神の思惑たる此の道どうなって居るかと云う、其の強気誠が末代まで光り輝くのである。
又高慢は学ぶ事を学ばず自身行わずに理屈で人を押さえるとか知らん事でも知り顔をする人よりえらそうに思うても自身に行わぬ、通らぬたしかに心に分からん事はうそになる、又自分で分からん事や無い事云うて人を迷わし人に迷惑を与える。高慢では力は出来ん、高慢から去るから力が与わる、。
心に力の出来るは此の神様つきよみ様の理。例えば理屈が達者になって人を押さえて見た所が其の実人を教育する仕込む、全て実力がなくては役に立たぬ、又身の内は此の神様の入込んではし/\迄何所でも伸縮自由自在出来るは此の位優しい素直な心はない、十人は/\に人を引き出す押し出す。人を連れると云う神様なり、自分の気に合わぬ者にも気を合わして行くのが引き連れる心。
又人間は心が低う無くては行き届かず低い心で働かねば徳が取れぬ。どんな人の云う事でも聞分けるという度量の広い人を容るゝという理で我が心広く大海になる埃の中にも正味有り、よき所は心に治める又力は血、地からという意味ありて低い所にある水は低い所/\と流るゝもので此の世の中に水程強い力あるものなし、水程やさしいすなおなものはない。
例えば下駄をはいて居て力出すよりも足を地に落として踏ん張る方が力が出るようなもので我が身の低い程力が出る如し、草木でも根張りが下に下にと下りるほど上に延長して大本になる程多く花実が稔る如く、又親は根で有る、(一切の親)根に切れては実が乗らん、肥がなければ太らん如く、道を治むるにも我が心落として師に仕え、十分勉強して恩を返す、根にを肥する程自分に徳が出来る大人となる。
例えば人に従うとか頭を下げる人を立てる事がうるさいから頭を下げて物を学ぶとか習う事をせず、初めから物知り顔で先生顔がしたいようなもので、たとえ如何なる賢人、聖人というても天下に名を輝かす様な御方でも生まれながらに物を知っては御座らぬ。
幼少の時代には或いは学校で先生に習い、だん/\目上や先輩に習い従うて自分が先生になる、元々より先に生まれて又先に学んで居るものが先生、昔からでも一世に名を挙げられた位の御肩は皆師に従い苦労せし修養の根が有って世に現れた如し。
又世の中に物のよく出来る人、出世せる人は或いは高慢も強く人を見下げるように見える人もあれど其の実は心が届いて働きが多く強くしてある熱心が強いから徳を積んで高慢の埃無く理に叶うから出世成功出来るなり。
又心の届かん物事の出来ぬ人に満足与えん人は天理にては高慢なり。例えば高慢の埃に前世から迫って居る故に心には行き届かそう満足与えよと思うてもようせぬ、天から押さえられて居る。つる類は皆此の神様の理故どんな事にも人より延び上がって下向きに頭を垂れると云うのが此の神様の御心の理が現れる、かの藤は美しい花を咲かして高い所から下にうつむいて花を見せる、人間も如何程出世しても心を低めて人に花を見せる心の味わい此の理がおおとのべの尊の御心に叶う所を人間に見せて居って下さる。
さがりやさがるほど人の見上げる白藤の花、咲いて実のない山吹の花、つる類は何でも他の物につるが優しく添うて伸びる、其のものよりどしてもう一段伸び出るという性、低い柔らか、やしゅうて実力の勢いが強いもの。又人間に対する高慢は人の云う事成す事つきくずす、或いは我が身を顧みる智恵無く人を恨み人が行き届かぬように思い又人を見下げ我がえらいように思うて我が事を鼻にかける、人に折れそれのない高い心高慢から人の云う事でも耳に入らん。用いん人に情けのない小さい心から胸の内が暗くなる。
神様に対するの高慢は己が前世より今世のよごした埃が十分有りながらそれを祓うて心を磨く事。心に主とせず又気付かずして清浄なるように思うて自分の目的や思惑を立てようとする心で道を通る心、我の勝手思惑あれば天の理を正直に守る、即ち神に素直になる事が出来ん故高慢が有っては話が納まらん、教え通り行えん。
例えば日夜の身上の大恩を思い神様の御守護で働かして貰えた、さして頂けると云う心でなくして之れは我が力で成したものだ、我が助けたものだ、我が働いて我が食うて居ると思う、心は神に対する高慢神の理を突き崩す理。故に形は人に与えて?心は与える、尽くす心なき理である。
道に年限重ねて人を助ける位置に在る人には神様に対する理の諭しが有る。人を出世させようと思う誠の心が我が身の出世出来る心である。欲と高慢大嫌いと御教祖は始終仰せられたり。
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