十柱の神の理

人間は神の子なり。人間身の内は神の貸物、銘々にとりては、借物なり。人間を守護下さる神は、くにとこたちの命様、おもたりの命様、この二柱は元の神、後の八柱の神は人間を拵えるに付き、使こうた道具衆に神名を授け給う。この十柱の神様は、この世の元の神様なり。


八つのほこり

病の元は心、病の性質が分らん様な事では病の根は切れん。 自分から其の根を切らん事には人の病の根を切ると云う事は難しいと仰せ下さるなり。例えば自己が罪人にて入牢の身なれば、他の入牢の者を助ける事難しいが如し。自己に其の病の性質を抜くから他の同病の人が助かる神が其の力を与え給う。

 

 故に神様は因縁をよせて守護下さるはめい/\の心を作らせ下さる故に人のふり見て我がふり直せと仰せられた通り、助け一條に当っては我が心に感じて、我が心の錆、埃を知りて改良する。我が心を磨く、見るも、聞くも同じ因縁有り。病人を与えられる、人助けの道に苦労すれば悪質が取れる。何でも人を助けようという心は誠故、その暖かき慈悲の心なるが故、我が心が成人成育する。

 

 明らかな御教祖の教えを聞いて、我が心が磨けるだけ人の心が写る。我が心が鏡になれば皆写る。我れの性質が抜けたら人の性質が分る。心を澄まさねば写らぬ、濁り水に物を入れても分らん如し。天理の教師とは天の定規差金を以って普請をする大工と同じ、差金が一分狂えば家全体が狂う。一分八間の例え、其の定規は御教祖の天の御言葉。(天啓)又定規無しに物を削って居る様な事では道は何年通っても心の普請は出来ん。即ち心が作れん、大きくならん、心を大きくする道を知らねば神様の普請の役に立たぬ。

  むしょうやたらにせきこむなむねのうちよくしやんせよ。

 

 神様の御順と四季刻限の順と有る。一二は月日親様、三は続ぎ、四は立つ、五は飲み食い、六は六く風、七は切り、八は引出し、八埃がほしい、おしい、にくい、かわい、うらみ、はらだち、よくこうまんと神様の順に云うて御説明がして無いのは、此の神様は此の埃と云う事が成人次第に見えて来る様にふたがしてある意味もある。

 

 我が心の磨けぬ作れぬものが易や八罫見た様な事を云うて、高慢のしたいのが凡人の常であるから、心の磨けぬ間は明らかな事は分らん故却って人を迷わし害になる。例えば子供に正宗の名刀を持たせた様なもので、却って我が身を傷つけ滅ぼす人を害する危ない名刀を使うだけの腕前が出来ねば、名刀たる切れ味が分らんと同じ神がその力を与えん。我が心を磨く道を知らざれば、我が身に生涯末代の徳を貰う事が出来ぬ、我が身が助からん。例えば易を習うて人の事を判ずる如し。

 

 此の度の道は万委細の元を知り是れ迄に世に教えられたる本病の本一切の元を知らし、心を磨かせ其の身に永遠末代の天徳を授けて助け下さる道、天啓即ち神の言葉を聞かして貰うのが天の徳なり。是れが心に治まれば神が心に宿って下さるのである。