こうまん(高慢)

 高慢はおおとのべの尊の引出し伸びる理を受けて居る故、人間も人より伸び出ようとする心が生ずる。多くの人の長に成ろうとか、人より上に出ようとする心は此の神様の性を受けて居るから生ずる。長は長い、出ようと思うたら自分が十分勉強し実践躬行して、力さえ拵えさえすれば自分が出ようとせいでも神が出して下さる。価値さえ有れば如何しても神が引出して下さる。

 

  登る神、引出しの神で有るのに人間は人を伸び出さず、登らす、引き出す、引き与えにゃならん所を引き出さん。人を押さえる心、与えん心、人を押さえて我が身が登ろうとする心、人を見下し、つき崩し、人の切つ先を止める、人を誹さす、言いつぶす、自慢、我慢、高慢、此の神様は引出し下さるは即ち、万事人間に引き与え下さる、満足与え下さる導きの神、出世の神とも云う力の神なり。

 

  人間も人に引き与える、人に満足を与える、我が身が低うなって人を引き出す、導く引き連れる。我れが知りたる事は人に教え与えて導く、人を伸び出さす心は此の神様の御心なり。故に此の神の御心に添えば力が出来る。高慢は人を見下げ、自分の長所と人の短所と見えて、段々人を見下げる様になる故、我が身の徳を段々落として行く。

 

 心を使う、徳を得る人、出世する人は之れと反対。自分の短所と人の長所が日々に見える。高慢無き低い心の者は日々に徳が出来る故、我が身が上る。高慢や我慢では真の力の備わるものでない。低い心で万事行き届く抜け目のなき、我れが十分守り行う。我が行うた事は高慢に非ず、我れの行わぬ事は嘘になるから高慢なり。四つのものを知っても十も知った様な顔して人に見せかける嘘を云う。小さい事でも大きく云う、知らぬ事を知り顔をする。

 

  人を引き出し、与えにゃならぬ所を与えん、引き出さんは皆高慢、我慢也。人に満足を与える事が出来ぬ、高慢がしたいから惜しむ心。例えば御道の大切なる理を人に教えるを惜しんで教えぬが如し。人に与えぬ、心引き出さぬ、心惜しんで人に全ての事を満足与えぬ心、人を抑えて我れが上ろうとする心、是れが身びいきから高慢、神様の御心に反する心故、我が身の徳、我れの力が出来ぬ故、上れぬ出世の出来ぬ心なり。

 

  我が身働くを惜しみ、人を働かし、人を使い、身惜しみをし、我れ働かずして人の働き、人の骨折りで儲けよう、徳を得よう、人を踏み臺にして我れが上ろう、出世しようという如く、高い所で物を拾おうと云う様な心。高慢は智恵の行き詰まりと云う。自ら昂ぶり、我れが偉いと思い、心使い高い、気の高い、いわゆる慢心する己惚れ。

 

 人間は身引き身欲から心が暗くなり、理非が明らかならぬ事になり、自分のする事はよい、違わぬ、我れはよく物が分って居る知っていると云う風で、我れのする事は非でも理と思うが如く、全て人間は人の事は分りよく見えるもの、互いに我が身の事は分り難いもの故に、我れの欠点を顧みず、又欠点が分り難い、人の欠点がよく分るから人を見下げる。人のする事は理でも非と思い、人が間違う人が行き届かぬ分らん様に感じて恨み腹立ち憎み等の埃を作り、我が身の下る道を作る我れの徳、智識の進む事を得ぬ。

 

  高慢は人の云う事が聞けぬ、聞き分けが出来ぬ、人の思いを達せしむるとか、人に満足さすとか、人も意見を入れるとか、人の忠告、目上の意見忠告も用い難く、人を立てる心なき向こう行き強く、我が心を反省する心なき故、我れが思う事する事は良いと計り、思い切るゆえ失敗誤りが多く出来るのである。

 

 高慢は人に成る程と見せかけて貰いたき心は欲しいに当るというて、我が身人より偉いと思う心は高慢にして、身引きの理という。全て自慢我慢からして負け惜しみ、負けても負けぬ、人を勝たすと云う様な寛容な情け有る心も、謙遜とか、従順とか、優しいとか云う様な美徳を失うもので、我れの価値を落とす。殊に婦人などは尚更なり、負け惜しみをして価値を落とす笑われる。

 

  人に見せかけて我れが高い所に居りたい。人に尊敬して貰いたい心から、知らぬ事でも知り顔し外見を飾る。見栄を張り立派そうに装う、人より偉そうにしたいと云うようなもので、其の内実は実力でない故、心は苦しい。皆埃は欲しいから苦しい、高慢から惜しみ。人に敬うて貰いたいと云う欲しい心が埃にて高い心故、気が昇る、気兼ね、皆力の出来ぬ心なり。人の云う事で心がぐらつく、変る定まらぬ、心が干る、細る理。心を落として低い水の心という誠の心は心太る理。

 

  笑う人には笑うて貰う、見下げる人には見下げて貰う、我が定めた真実は狂わぬ、人の云う事で心が濁らぬ、動せぬ丈夫な心、誠を定めれば、実力が備わるで我が身が上ってくる。低い心で人に負けて働くから、我が身に徳が出来る。高慢は人を大切、立てるという礼譲、誠を欠くもの故、人に嫌われてつまり見下げられる事になる。

 

神言 「如何な人でもこんな者でも日々通る所に高い低いの区域付ける理はない。身上は神様よりの借り物で有るから高山から谷底迄も人間に高い低いは無いけれど心の理は数限りない高い低い有る。そこで人を見下ろす事は埃となる。財産が多くあるとて人に分けるでなし、智恵才智有り賢う生まれていると云うても人にやるじゃなし、分けるじゃなし、皆其の人の徳じゃから高慢するに至らん。又道の上でも同じ事、二十年勤めた者も十年でも五年でも今々出て勤めている人にも同じ理、長く勤めた人は長いだけの理、短く勤めた人は短いだけの理である。高い低いの区域付けるは神の道にはすっきり外れてしまう……」と仰せられて有る。

 

 神様は近道も欲も高慢無き様にと仰せられ、又欲が有るならやめてくれ神の受け取り出来んからと仰せられてある。皆人間の埃が強いから神を止める。神が入込めぬ守護が出来ぬ故、八無八迷い病となる。神様の身の内、世界の真実御働きを無にする心、神の道を止めるもの故、皮が腐るとか破れるとか、骨が痛むとか枯れたり種々変じて来る。

 

 欲しいも惜しいも可愛いも皆御神心故理に叶う様に出来れば神心と一致するなれど、神の御心には合わん。欲しいや惜しいや可愛いになる故、埃となりて身の害をなす。八埃は皆神様に対するもので、神を無にする、神を憎む、神を立てぬから八無病となる。人間に対して万事成すなれども、人間が神の借り物、神の八方故、只心だけが人間の物故なり。神様と身内と別々に思うて居ては、天理は分らぬ。神は身の内に御座るなり、身内と神様を一つに考えざれば悟り諭しは分らん。身の内借り物が分れば何かの事も鮮やかと仰せられる世界に分らん事はないと御教祖は仰せられてある。

 

 神言 「一粒万倍種より生えて来る天の理にもたれてする事なら怖き危なき道はない。八ツ聞いて八ツ説くだけでは如何もならん襖に書いたる絵の様なもの。八ツと云う理が心に治まらにゃ如何もならん。白いものやと云うて売っても黒かったらどうする。無理の理でも通すと云うは、人間凡夫の理である。

 

 又病気御諭しも人間は一人毎に顔の異なる如く心も同じからず、其の人に依って見分けが肝要である。臺は極まってある八方の神様の御心より出る。八埃より外には無いけれど、八埃が千筋あると仰せられる通り、一つの病にても例えば欲しいから起るのもあれば、恨みから出るもあり高慢から出る人もあれば、憎みから出るのもあると云う如く、一つの埃が八ツに分れ又同じ埃でも其の人によりて事情が異なる如くのもの故、神の守護身の内の組み立ての根元世界万物の理を知りて、臺が心に治まってあれば皆その人/\の見分けも自然に分り来るものとなる。諭しは枝末なり、悟りと云うものが出来て始めて諭し方が分る。